糖尿病、生活習慣病の専門医院 松本市・多田内科医院

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くろべえ物語

第3話 僕はくろべえ
 生まれたばかりの頃の記憶はあまりない。眼が開き歩けるようになったとき、隣にいたのは全身がグレー色とキジトラの2匹で、僕はというと、手足が真っ黒であった。グレーは後にルビーと呼ばれる美人猫になるのだが、彼女は幼少の頃からしっかり者の姉御肌であった。後に千代丸となるキジトラは、未熟児で生まれ、僕の弟分にあたる。母(ママモドキ)に一匹ずつ首根っこをくわえられて、数日ごとに引越しを繰り返していた。すずらんの葉っぱがたくさん茂っているところや、つつじの株と株の間の狭い日陰や、あるときは縁の下の暗くひんやりする場所で暮したこともある。その頃の母はいつもそばにいて、僕たちを柔らかいお腹で包み込んで体中を舐めてくれたし、お乳もしっかり飲ませてくれた。母が出かけるときは、3匹が寄り添うようにかたまってじっとして、外敵に見つからないように注意していた。それまで一番居心地が良かった場所は、あるみすぼらしい古い家の軒下の少々砂っぽい地面にすずらんの葉っぱがたくさん生えているところで、花がちょうど満開だったような気がする。そこは椿の樹の根元なので雨があたらず、すずらんの葉っぱが心地よい日陰をつくってくれて、身体を隠すのにはもってこいの場所であった。
 あの日は確か、近くを流れる大門沢川の川掃除のあった日で、朝早くからがやがやと騒々しい日曜日であった。突然、でかい人間のおじさんの顔が椿の葉の間から現れ、眼をまん丸に見開いてギューと近づいてきたので、すずらんの葉っぱの中にいた僕たちはびっくりしてパニック状態になってしまった。お姉さんのルビーは僕たちを押しのけて前に進み、おじさんの顔を睨みつけてカーツと威嚇したが、僕と千代丸は怖くてルビーの後ろに隠れて震えているばかりであった。おじさんは白髪がかなり混じった長髪を、若い頃は多少ハンサムであったであろう面影をわずかに窺わせる顔に垂らして、僕たちをしばらく見つめていたが、急にニヤッとだらしない顔になり「へーえ、ノラにしてはかわいいな」と呟いた。おっとりした挙措や、面相に険がない様子なので僕たちは少し安心した。このおじさんが僕のとうちゃんになる人だった。とうちゃんはすぐに2人の女性を連れて戻ってきた。
「ここだよ」
「わー、かわいいじゃん」
「さすがママモドキの子供ね」
「でも、ここじゃ困るなあ。はやくどこかへいってくれないかなあ」
年上の女性は小柄で眼の大きい知的な感じのする人だ。高校生ぐらいの娘は童顔で身体がひょろっとして、脚が異常に長い人だった。この2人がかあちゃんとねえちゃんである。3人が帰ったあと、その様子を遠くから窺っていた僕たちの母(ママモドキ)が戻ってきて、「さあ大変、ここは危ないよ」と言い、1匹づつ首をくわえて隣の家へあわてて引越しをしたものだった。
 その事件があった後、3回ほど引越しをした覚えがある。しかし、ある日突然、母が僕たちのところからいなくなってしまったのである。遠くに母の気配がするのだが、いくら鳴いて呼んでも来てくれないのである。ああ、悲しいかな、僕たちは親に見捨てられた放浪の身になってしまったのだ。母のぬくもりと食べ物を求めて、どこをどれだけさ迷い歩いたことか。気がつくと、僕たち3匹はすずらんのある、あのみすぼらしい古い家の周りを歩いていた。眼は痒くて涙が出てしょぼしょぼするし、お腹が空きすぎて足に力が入らずふらふらしてしまう。とにかく口に入れられるものはどんなものでも食べなくてはいけない状況だった。すると、突然、「そんなもの、食べちゃだめ!」という叫び声がして、人間の手に抱かれ、草も石も風もない、やけにつるつるとして小奇麗な所へ連れていかれた。無心にうんこを食べていた僕たちを、かあちゃんとねえちゃんが助けてくれたのであった。家の中でミルクをたっぷり飲み、柔らかいタオルの上に身を横たえて、これまで想像もできなかった危険のない安らかな眠りを得たのである。そこへ、たまたま半日留守にしていたとうちゃんが帰ってきた。バスタオルの上でぐっすり眠っている僕たちを発見して、「ぎゃっ」と叫び、のけぞった。
「な、なんだ、これはっ!」
「ママモドキの子供よ」
「どうしてここにいるの」
「西側の塀のところでうんこを食べていたのよ。ほんとにかわいそうに」
「それで、ど、どうするの?」
「うんこを食べていたんだからしょうがないじゃない」
「でも、これは、大変なことになるよ」
「だから、うんこを食べていたの!うんこを!」
この夫婦はかみ合わない会話を何度も繰り返し、ねえちゃんはその横で「やったー。飼おうよ、飼おうよ」と叫んでいた。とうちゃんだけは、猫のいる家の中がどれほどひどくなってしまうのかを、確信に近い気持ちで予見できるのであった。
 僕たちの身の振り方をどうするかが重大な問題であったが、その前に僕たちの身体は病気でボロボロだったらしい。3匹とも眼脂で片目がつぶれていたし、栄養不良なのか虫がいるのか、お腹がパンパンに膨れていた。この家に入り込んだ翌日、僕たちは汚いダンボール箱に入り、車で10分ぐらいのところにある“猫の病院”という獣医院に連れていかれた。猫専門の獣医さんらしい。人間の医学会は近年、専門別に細分化されているようだが、動物の世界もきっとそうなのだ。獣医の先生のことをとうちゃんたちは陰で、猫のおばちゃんとか、猫のおばばなどと不謹慎な呼び方をしていたが、僕は敬意を表しておばちゃん先生と呼ぶことにした。おばちゃん先生は年齢不詳のちゃきちゃきとした小柄な御婦人で、猫顔か犬顔と問われれば限りなく前者のほうに近く、前世が猫であったことはほぼ間違いない。僕たちはおばちゃん先生の顔を安堵の思いでうっとりと見つめていた。おばちゃん先生のお話はとても単刀直入の明快さで、明快すぎて疑いや質問をさしはさむ余地がほとんどない。
「細菌感染だから抗生剤の注射と飲み薬ね。このお腹は回虫腹よ。虫下しを飲んでね。3匹ともそうかって?この子達、みんなそうよ。」
ちょっと、ちょっと、おばちゃん先生、その言い方、少々断定的すぎではございませんか。結局、僕たちは皆様のおかげで、目もパッチリ、お腹すっきり、すっかりきれいで清潔な正統派の子猫に変身することができたのであった。さらに、猫エイズ検査をパスし、猫3種ワクチン(猫ウイルス性鼻気管炎・猫カリシウイルス感染症・猫汎白血球減少症混合生ワクチン)を注射してもらい、健康面でもバッチリグッド。
 僕の生涯で最も楽しかった時期は、兄弟3人で過ごしたこの1ヵ月間の日々であるに違いない。いままでは生きるため、生活するために費やしてきた命のエネルギーを、今は衣食住の心配がなくなった(衣は関係ないか)ので、それをすっかりそのまま遊ぶために使うことになったわけだ。3匹兄弟は大変仲良しであった。ここで兄弟の性格を紹介しよう。ルビーは猫のくせにねずみ色のふかふかした毛を持ち、容姿が母(ママモドキ)にそっくりな美貌である。物心ついたときから少々お高くとまっているところがあり、取っ組み合いをしようとすると、「フン、あんたたちとはオツムの程度が違うんだからね、一緒にしないでよ」といって鋭いビーム視線を浴びせかけてくる。仕方が無いので、取っ組み合いの相手は千代丸ということになる。千代丸は色の薄いキジトラで、人間から見れば純真なあどけない眼をしたかわいらしいアイドル顔ということになる。しかし、僕たちの世界では、千代丸の顔つきは単なるアホ面なのである。あまり賢くない目つきをしていて、発育不良の、いわゆるデキソコナイといってよい。言葉も不明瞭だし、走ると下半身が脆弱なので腰砕けになってしまう。千代丸と取っ組み合いをすると、その弱いの弱くないの(弱いのである)、僕のやりたい放題だ。ジャンピングあびせ倒し、左ジャブ気味の猫パンチ、縦十地固め、スリーパーホールドと首噛みのあわせ技、首を押さえつけての猫キックの連打、ヘッドロックからの首投げ。千代丸の反撃は苦し紛れの猫キックだけであった。でも、プロレス博士であるとうちゃんにつかまると、繰り出してくる技のその多彩なこと、なにがなしの畏怖を覚える。とうちゃんの武器は手と指だけだが、卍固め(使い手:アントニオ猪木)、カナデイアンバックブリーカー(ブルーノ・サンマルチノ)、弓矢固め(アントニオ猪木)、コブラクロー(タイガー・ジェットシン)、キャメルクラッチ(ザ・シーク)など、洗礼をうけるのはたいてい僕だけであった。
 これは後で聞いた話だが、僕たちが遊び呆けている間に、とうちゃん達はある恐ろしい相談をしていたのである。それは、知人に僕たちをあげてしまおうという企みだ。その知人には小学生の兄と妹の子供がおり、2匹の子猫がほしいという希望を持っていた。そこで、数日間僕たち3匹を知人宅に預け、気に入った2匹を選んでもらうことになったらしい。そのときのことを、僕は語りたくも思い出したくもない。その知人宅で僕は、悪がき、いじめっこ、無法者などと言われなき罵詈雑言を浴びせられたのである。いつものように、手加減しながら千代丸と取っ組み合いをしていると、眼も声も異常に大きいおじさんが、こらーっ、千代丸をいじめるなー、といって僕の首根っこをつかんで持ち上げ頭をぱんぱん叩くのだ。ああ恐ろしや。3匹のうち2匹を選ぶとなると、美しく賢いルビーは真っ先に当選で、次は人間にはかわいく見える千代丸が選ばれるのは当然の成りゆきだった。兄弟と別れるのは辛かったが、とうちゃんが迎えに来てくれたときは、本当に助かったと思った。とうちゃんに抱っこされて家に戻ってきたとき、かあちゃんとねえちゃんは温かく迎えてくれたが、少々複雑な表情をした一瞬を僕は見逃していない。実は、かあちゃんは断然千代丸派で、ねえちゃんはルビーを気に入っていたらしく、とうちゃんだけは僕のことが一番好きだったのだそうだ。とうちゃんは僕と2人きりになったとき、息が止まるかと思うほど僕をぎゅーと胸に抱きしめて、よかった、よかった,よかったと,何度も囁いた。
 僕は“くろべえ”と命名され、晴れてこの家のイエネコになったのである。

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