糖尿病、生活習慣病の専門医院 松本市・多田内科医院

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くろべえ物語

第4話 発病
 僕はくろべえと呼ばれ、とうちゃん、かあちゃん、ねえちゃんの3人家族と暮すようになった。とうちゃんが買ってきてくれたねずみのおもちゃやピンポン玉で遊ぶことも、家の隅々の匂いを嗅ぎまわることも、2階の広縁から庭を訪れる野鳥を観察することも、何もかもが楽しいことばかりであった。僕が最も烈しく興奮する遊びは鬼ごっこである。といっても、逃げ回るのは僕だけである。だれもやってくれない時は自分から催促する。後ろからそっと忍び足で近づき、ニャッ(“やあ”とか“ちょっと”という意味の猫語)といって人の脚のすねを左手でちょいと叩くと、一番喜ぶのはかあちゃんである。「やったなー、くろべえ」と叫び、笑いながら追っかけてくるので、僕は廊下を駆け抜けてとうちゃんの部屋に逃げ込み、追い詰められて困ったような振りをしてかあちゃんの足の間をすり抜けるのだ。次にねえちゃんが出てくるとスリルが増し、階段を一気に駆け上がり広縁を一周して、得意のフェイントをかけてねえちゃんの手をすり抜ける。最後にとうちゃんが登場し、ものすごい勢いで追いかけてくるので、ここに至って僕は狂喜の際に達するのである。僕のフェイントは完全に裏をかかれ、捕まってしまうと、とうちゃんのプロレス技が炸裂する。こうなると僕よりとうちゃんの方が精神の繚乱がはなはだしく、鼻息も荒くなり噛みつき技まで繰り出してくるのだ。これはけっして冗談ではない。フルネルソン(後ろから羽交い絞めにする技)に固め、本当に僕の首の後ろを強く噛みついてくるのである。僕もやられてばかりではない。フンギャッ(不意をつかれたときの猫語)といって振り向きざまとうちゃんのほっぺたに噛み付く。たじろいだその隙に、とうちゃんの手にパンチと猫キックの連打を浴びせると血が流れ出し、とうちゃんは「やられたー」と情けない悲鳴を上げてひっくり返るのであった。ああ、愉快、愉快。
 日々こんな能天気なことをして暮らしをしているが、兄弟と別れてさぞかし愛別離苦であろうと同情してくれる人がいるかもしれぬ。ところが実際のところ、母に対する思慕の念も、ルビーや千代丸への執着も、すでにいつの間にやら忘却の片隅に仕舞い込まれてしまったようだ。おまえは肉親の情愛がわからぬ畜生だなどとはいわないでほしい。犬畜生とはいっても、猫畜生とはいわないはずである。猫はもともと群れをなさず、単独行動をする生き物なので、他人に掻き乱されぬ孤独と静謐をこよなく愛してやまないものなのだ。ただ、母が呼ぶあの切ない鳴き声と、僕に押さえ込まれた千代丸の漏らす息遣いなどを思い出す寂しい夜には、僕の心に、あるひんやりした情感がおそってきて容易に眠りに入れないこともあることを告白しなければならない。
 それにしても不思議なのは、台所の勝手口のドアから外を見ると、ミャア、テイビ、ママ、ママモドキなどの僕の一族郎党が外で暮しているのに、僕だけが家の中にいるという事実である。みんなも外から不思議そうに、奇妙なものを見るように僕を見つめている。一度、なぜ僕だけが家の中にいるのと、とうちゃんに聞いたことがある。「んだがらよ、くろべえは生まれながらにして幸運だったんだごでえ。これは運命とゆうものがもすんに。けっして天命というわけではないげんどねえ。つまり、なんというか、まあず、今のくろべえはミャア達とは身分が違うんだごでえ。わがあんねが?」と、山形弁まるだしで諄々と説くように話をしてくれたが、いったいなにを言っているのか、僕にはどうもわけが分からん。とうちゃんの話し方には普段から山形弁が混じっているのだが、僕と2人だけのときはなぜか生粋の山形弁になるのだ。
 凛とした美しい祖母(名前がママ)と若く美貌の母(ママモドキ)を除くと、僕の一族はみな薄汚く、がつがつとして、なんとうらぶれて見えるのだろう。数匹鼻水を垂らしているときもあれば、片目が半分つぶれていることも珍しくない。とくに、相撲の朝青龍に似て醜悪かつ凶暴なブタパンチなどは、たいてい両眼が潰れかかって、涎を流している形相は凄まじく、とてもこの世の生き物とは思えない。ときには立ったままの姿勢でガフツガフツガフツと顔面を震わせながら頭を前後に痙攣する咳発作をおこしている姿は、恐ろしさのあまり正視できない。この一族の中でミャアとテイビは僕にとっても家族にとっても特別な存在である。他の猫は人が触ることのできない、いわゆるニゲネコだが、この2匹は逃げるどころか、逆に無類の人好きなのである。とくにミャアは馴れ馴れしいことおびただしい。たとえば、かあちゃんの車が家に着くと、ミャアが尻尾をピンと立てて金の玉をぷりぷりさせ「みゃあー」と叫びながらどこからかやってくる。かあちゃんの眼を熱く見つめながら、かあちゃんの足に自分の頬と横腹をズリズリこすりつけ、横歩きで玄関まで付いてくるのである。この恥も外聞もない態度に、僕はいつも呆然とする。結局、この2匹だけは家の中に入れてもらえる特権が与えられたのである。ただし、それは夕方のひと時のみであり、もっと居たい、といって足を踏ん張って抵抗するが、無理やり追い出されてしまうのであった。出されるときに一瞬振り返るミャアとテイビの恨めしそうな眼差しを受けると、僕の身体はぶるぶると震え、悲しみの渦が胸に拡がっていく。なぜなら、この2匹は僕のことをこよなくかわいがって遊んでくれる大好きな叔父さんだから。弟の千代丸が相手のときは手加減するが、この2匹には全力で相対することができる。あまりしつこくすると相手は怒ってしまい、僕の首筋を噛んだまま僕を組み敷いてしまうが、僕は下でもがきながら、そうしてもらえるのが嬉しくてたまらなかったのである。テイビ叔父さんと大冒険に出かけた一夜は忘れえぬ思い出となった。一日中家の中で過ごしている僕は、一度でいいから家を脱走して野原を思いっきり駆け回ってみたいと夢想していた。あれは虫の声も絶え、月明かりが冴えわたった10月の末のことだった。テイビが呼んでいる声が聞こえたので洗面所に行ってみると、なんと、窓の網戸が少し開いていてそこにテイビが座って、おいでおいでと手招きしているではないか。千載一遇とはまさにこのこと。僕はテイビに誘われるまま外に脱出して、後をついていった。夜気がひんやりと肌に冷たかった。テイビと一緒に、家の周りを一周し、物置小屋の隅をクンクンし、隣家の縁の下を通り抜け、大きい駐車場を駆け抜け、ねぎ畑に入り込んだ。広い畑の中をニャオーン(“やっほー”という意味の猫叫び)と鳴きながらテイビと追いかけっこ。畑の向こう側にねえちゃんがやってきて僕を何度も呼んでいたが、今日だけは無視することにした。この状況を科学的に分析すると、猫は視力が弱くてせいぜい20メートル先ぐらいしか見ることができない。つまり視力は人間の10分の1程度だが、そのかわり視野が広く、動くものは容易に捉えることができる。一方、聴力はきわめて優秀である。したがって、畑の向こう側に人が来たことは分かるが、誰なのかは同定できない。人目をはばかるように「くろべえ、おいで」という囁きに近い小声がはっきりと鮮明に聞こえたので、ねえちゃんだと分かるのであった。1時間ほど遊びまわって、疲れ果てて家に戻り、庭の石の上で一休みしていたところを後ろからねえちゃんに捕まってしまった。とうちゃんは怒り心頭、阿修羅のごとき形相で僕を待ち受けていた。「この馬鹿者」と怒鳴られ、脳天唐竹割り(使い手:ジャイアント馬場)を何発も喰らい、首締めの揺さ振りからネックハンギングツリー(アンドレ・ザ・ジャイアント)の大技を受けて、僕は耳を伏せ這いつくばるようにして2階の箪笥の上に避難した。べそをかきながら僕は考えた。脱走したぐらいで、どうしてこんなに叱られるのだろう。全知全能をめぐらした結果、人(猫)一倍聡明な頭脳の持ち主である僕には2つの理由が思い当たった。とうちゃんたちは僕のことを、普通の猫よりも知能が低いと考えているふしがある。僕は他の猫より感受性が強く、多くのことを考えすぎるので、じっとしているときでも眼がキョトキョト動いてしまう。そんな挙措が、落ち着きのない思慮に欠ける猫とみられてしまうのではないかと思われる。1人で外に出たら迷子になって、家に戻れなくなってしまうのではないかと家族は真剣に心配しているらしい。もう一つの理由は、他のノラ猫の存在だ。ブタパンチのような猫に病気をうつされる可能性もあるし、近所にはシロジイという真に恐ろしい凶暴な悪猫がのさばっており、箱入り息子の僕などは襲われたらきっと噛み殺されてしまうだろう。
 ある日、食事をしていると、口の中の一点に違和感を覚えた。それがいつとはなしに痛みに変わっていき、それが歯茎や口全体に広がっていった。御飯を食べるとき口が痛くてあまり食べられない。でもお腹が空くので食べたい。食べると痛い。ああ、少し辛いなあ。一番優しくしてくれるねえちゃんが、くろべえの口が臭い、と言い出した。とうちゃんとかあちゃんがどれどれと、僕の口の中を見て、「これは口内炎に間違いない」と診断した。とうちゃんはなにを血迷ったのか「口の中を消毒してきれいにしよう」などと高らかに宣言し、僕を洗面所に連れて行って首をヘッドロックに固め、水を流しながら指を僕の口の中に入れてゴシゴシとやったものだからたまらない。「うげぇ!とうちゃんそれはないぜ」と叫んだ。かあちゃんとねえちゃんが跳んできて「そんなかわいそうなことをしちゃダメ」と散々とうちゃんを叱責していた。そんな事件の数日後、急に寒気が来て、食欲もなくなり、動くのも億劫で、寝床にずっとうずくまってしまった。とうちゃんは聴診器をもってきて僕の頭に当て、「うーん、脳はからっぽだな」などとほざき、次に聴診器を胸や腹に当て、「うーん、心臓は動いているのだが」と呟いた。3人とも僕を覗き込み、「いったいどうしたんだろう」と顔を見合わせるばかりである。とうちゃんとかあちゃんは内科と耳鼻科の医者なのに、猫のことは何にも分からないのである。こうなると頼りになるのは猫のおばちゃん先生しかいない。「猫の病院」のおばちゃん先生、僕の口を診るなり、「きゃはっ、この子、歯抜け小僧よ」と、つい、地をだしてしまった。ちょっとちょっとおばちゃん先生、その言い方はないでしょう。確かに僕の前歯は上下とも2,3本しか残っていなかったのである。検査の結果、僕は白血病ウィルスが陽性で、そのため免疫力が低下し、口内炎が慢性化していることがわかった。口内炎は抗生剤を注射すれば数日で改善するらしいが、白血病はあと3年の寿命であると、家族にだけ宣告された。おばちゃん先生の話では、アガリクス入りの鮫軟骨を毎日服用し、インターフェロンの注射を月2回おこなえば、もっと寿命が延びる可能性があるという。治療費はけっして安くはないが、とうちゃんとかあちゃんは、僕のためならばといって、治療を受けることを決心したそうだ。猫冥加というものは、家族の愛情に尽きるのかも知れぬ。後で病気のことを聞かされた僕は、家族に感謝しながら、鮫軟骨を一所懸命に舐め、月2回おとなしく猫の病院に通院するようになったのである。白血病ウィルスに感染したのが幼少の放浪していた時期だったのか、それともミャアやテイビにうつされたのか、それは神様のみ知るところである。

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