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多田久也のコンサート放浪記

(20・最終回)ウィーンフィル定期演奏会
クリステイアン・テイーレマン指揮、オペラ ヘンゼルとグレーテル(ウィーン国立歌劇場)

 ウィーン国立歌劇場の2015年10月からの年間公演スケジュールがその年の5月に発表され、その中にテイーレマン指揮、ヘンゼルとグレーテルのプログラムを見つけた。それ以来、わたしはどうしてもそれを観たくなり、日々の心の落ち着きを失った。音楽雑誌には本年度における最注目の演目と書かれていた。わたしは数年前パリのオペラ座でこのオペラを観たことがあるので、そのすばらしさを知っている。物語はおなじみのグリム童話であるが、子供向けと侮ってはいけない。作曲家のフンパーデインクはワーグナーの弟子であるからすばらしいオーケストレーシヨンの音楽であり、子供も観ることはできるが、大人向けと言っても良いオペラなのである。テイーレマンが指揮するのは1週間のたった3回だけなので時期は限られている。一方、かねがねウィーンフィルの定期演奏会を聴いてみたいと思っていたので、この同じ時期にはたして定期演奏会がないだろうかと調べてみた。あっ、あった、あった、フランツ・ウェルザー・メスト指揮でR・シュトラウスの家庭交響曲という演奏会が。同じ週に両方とも聴けるのだ。よし、これでウィーン行きが決まった。
 ウィーン国立歌劇場の前から6列目左寄りの席に早々と着き、周囲を見回せば聴衆はやはりほとんどが大人である。オーケストラの音合わせや心地良いざわめきに身を浸していると、高揚感は次第に高まってくる。オペラの予習はバッチリだし気合も十分である。しかも、今日のコンサートマスターはライナー・キュッヘルだ。客席が暗くなり、巨体のテイーレマンがせかせかと入ってくると、まだ演奏前なのにブラボーの歓声が沸き起こった。これは相当期待が高まっている証拠で、かなり珍しい現象である。この席からはテイーレマンの横顔が少しだけ見え、ちょうどその延長上に友人のハンス(ヨハン・シュトレッカー)がトロンボーンを構えており、わたしと視線が合った。序曲が始まりホルンの幻想的な音が響き渡った瞬間、劇場内はメルヘンの世界に変わった。音楽はテイーレマン独特のスローテンポで始まり、すべての楽器を美しいハーモニーで丁寧にまとめていながら重厚感は決して失ってはいない。ヘンゼル、グレーテル両者ともソプラノで、きびきびときれいに物語は進んでいく。ヘンゼル役はDaniela Sindramというボーイッシュな長身の歌手で歌も演技も良く、わたしが持っているDVDでもヘンゼル役で歌っているのではまり役のようだ。一方、グレーテルは声も容姿もやや可憐さに欠けるようだ。演出は、このオペラならぜひこうあってほしいと思う以上にすばらしく、森の中の場面などは理想的である。このオペラのクライマックスは第1幕終わりの、眠りの精と12人の天使が登場する場面だろう。ウィーンフィルの美しい調べと天使の合唱が相まって、陶酔感は最高潮に達した。夜空に大きな月が昇り、その月が眠りについたヘンゼルとグレーテルを見守りながら優しく微笑んだ所などはなんという感動的な演出だろう。わたしは思わず泪が出そうになったが、細君は泪が止まらなかったという。わたしの心は絶えず優しく揺すぶられていた。
 幕間になるとすぐ、約束どおりハンスがわたし達の席に迎えに来た。実はこの数時間前、昼食をハンス一家と“プラフッタ”というレストランに行ってごちそうになったのである。そのとき、「今夜は幕間にいい所へ連れていってあげるからね」と言われていたのであった。夢のような第1幕は終わったが、わたしの夢のような嬉しい出来事はまだ続いている。ハンスはステージの横のドアの鍵を開けてわたし達を中に入れてくれた。階段を下りて廊下を歩いて行くとそこは舞台裏のカフェだった。つまり、演奏者専用のカフェ。席について周りをきょろきょろすると、そこには、いる、いる、いっぱいいる。テレビで見たことのあるウィーンフィルのメンバー達が。名指揮者や往年の名歌手の写真が壁いっぱいに貼られている。わたしのすぐ横にはクライバーの写真があった。そういえばクライバーはこの劇場で“カルメン”や“ばらの騎士”などの歴史的な名演奏をおこなったのであった。カフェには残念ながらテイーレマンもキュッヘルもいなかったが、ハンスが主席フルート奏者のワルター・アウアーをひき会わせてくれた。ここでもハンスにシャンペンをごちそうになった。贅沢といえばこれほど贅沢極まりない場所と時間にわが身を置くなどということは、日本にいるときは夢想もしなかったことである。ずっとここに居たいのだが休憩終了の鐘が鳴ってしまった。「来年の秋、東京で会おう」とハンスと約束し、第2幕が始まる客席に戻った。
 第2幕は、思ったより小さなお菓子の家が現れ、滑稽な顔つきの魔女が登場し、物語はどんどん進んでいく。どうしてこんなに早く進んでしまうのだろう、と思う。精神が高揚しているため集中力が異様に高まり、歌と音楽のすべてを同時に捉えることができているように感じる。少し細かい話になるが、わたしが持っているCDはショルテイ指揮、ウィーンフィルのスタジオ録音(1978年)で、ヘンゼルとグレーテル、暁の精がそれぞれブリギッテ・ファスベンダー、ルチア・ポップ、エデイタ・グルベローヴァという信じられないぐらい物凄い歌手陣である。CDはあのショルテイの指揮であるから、オーソドックスで力強く引き締った演奏だが、今日のテイーレマンのほうがゆったりとして幻想的な感じがでていると思う。しかし、当然のことながら今日の歌手陣はすべてCDに比べると遠く及ばない。その中でもヘンゼルのみがファスベンダーに匹敵するほどの健闘を見せていた。
 終演後、楽屋口には多くの人々がサインを求めて集まっていたので、わたし達もそれに加わった。夜も更けてきたが、どうせホテルはオペラ座の隣なのでどうということもない。普段着に着替えた歌手が一人ずつ出てくるのを待ち構えお目当ての歌手にサインをもらうのだが、ウィーンっ子で人気者のお父さん役に群がるファンが1番多く、ヘンゼルと魔女がそれに次ぐ。ファンとはまことに正直で冷酷なもので、あまり人気のないグレーテル、お母さん、眠りの精に対してはだれも見向きもしない。わたしはヘンゼル役が最も気に入ったのでDaniela Sindramと握手し、サインをもらい写真まで一緒に撮ってもらった。彼女は親切で笑顔の素敵な女性だが、舞台でのはつらつとした子供らしい可憐さが全く想像できないぐらい歳をとっていた。


ペーター・シュナイダー指揮 オペラ エレクトラ(ウィーン国立歌劇場)

 ウィーン国立歌劇場の皇帝席、すなわち2階最前列の真正面の席にわたしは座っている。2年前、“魔笛”のときもこの席に座ったことがある。どうしてこのような僥倖に恵まれるのかといえば、ウィーンに住んでいる友人の真千さんが、人には言えないなんらかの秘密のウラの奥の手を使ってチケットを取ってくれるからである。R.シュトラウスのこのオペラは日本ではあまり上演されない。その理由は、このオペラがあまりに暗く悲しく壮絶であるからだろう。なにしろ“サロメ”よりも強烈だ。最初から最後までメロデイーらしきものはなく、力んで叫んでいるとしか思えないような歌唱の場面が多いのである。クレモナの金森氏でさえ、何だかわからなくて辛いオペラですよ、と警告してくれたほどだ。そんなオペラであっても、音楽に対し常に真摯に向き合い、どんな曲をも理解しようと努力を重ねる多田君は偉いと思う。小澤征爾指揮ボストン響のCDをクレモナで取り寄せてもらって5,6回聴いてみたが、やはりなんだかよくわからない。
 上演が始まってすぐ、下女の5人が全裸で登場した。本当にそうなんだろうか。幸いにも小型の高性能双眼鏡をもってきていたので、凝視したら、間違いはなかった。さて、このオペラで最も称賛されるべき人は、ワーグナーの“指輪”のブリュンヒンデに匹敵する難役といわれるエレクトラを最後まで力強く歌いきったNina Stemmeという歌手である。この人の歌唱力とスタミナには瞠目せざるを得ない。エレクトラに刺激されたせいだろうか、他の歌手達もみんな立派に歌いきり見事だった。音楽も終始緊張感を保ちつつ劇的であり丁寧にまとまっていた。通常は1時間45分で終わる1幕のオペラであるが、今日はちょうど2時間かかった。余談。1978年、クライバーもイギリスのロイヤルオペラでこのエレクトラをやったことがある。このときはなんと1時間28分であった。あのクライバーが指揮しても、さすがにこのオペラはうるさくてやかましいことに変わりはなかったが、これまで上演された中で最も繊細で抒情的であったと評価されている。今日の“エレクトラ”は、ウィーン滞在中に上演されているオペラだから、あまりよく知らないがついでに観ておこうというごく軽い気持ちで選んだものである。しかし、ソプラノ歌手である真千さんも、偶然会った真千さんの友達でピアノの先生も「今日の“エレクトラ”は歌手がとても良く、演奏も充実していて本当にすばらしかった。今日のオペラを選んだのはラッキーでした。」と興奮していた。そして、「この演目を選んだ多田さんはやはりさすがですね。よく研究されているようですから見る目が違います」と言っていた。まあね、と答えておいた。


ラハブ・シャニー指揮 ウィーンフィルハーモニー管弦楽団(ウィーン楽友協会)

 わたし達がウィーンへ出発する直前、2通のメールが届いた。ハンスと、ちょうど今ウィーンを訪れている横浜の手塚さんからで、ウェルザー・メストが急にキャンセルし若いイスラエル人のラハブ・シャニーという人に変更になったという。わたしはこんな人を聞いたこともない。すぐネットで調べてみると曲も変更になり、バッハのピアノ協奏曲BWV1052を弾き振りし、マーラー交響曲第1番を指揮するらしい。経歴を調べても、まだ20代でほとんど実績らしいものはない。わたしはウィーンフィルに対し怒りを感じた。世界が注目する権威あるウィーンフィルの定期演奏会を、たとえ代役とはいえ全く無名の若者にすべてを託すとはとんでもないことだ。わたしは日本を出発するときから半ば諦めた気持ちになり、この演奏会に対して期待してはならぬことを自分に言い聞かせていた。しかし、ハンスの奥さんでウィーン交響楽団のチェロ奏者であるアレキサンドラが「1度だけシャニーと共演しましたが、彼はすばらしい音楽家で一種の天才と言ってもいいでしょう。メストが降板してくれてヒサヤはラッキーですよ」と言うのだ。ハンスはこの演奏会は降り番だが、仲間からリハーサルでのシャニーはとても良いということを聞いているらしい。これらの情報はわたしの半ば諦め消沈した気持ちを大いなる期待に膨らませてくれたのだ。未来の巨匠たるべき無名の若き天才音楽家が、どのように歴史的なウィーンデビューを果たすのかを見届けてやろうと、そんな気持ちに変わったのである。
 楽友協会の玄関を入り大ホールに足を踏み入れるときの胸のときめき感は、サントリーホールのときのそれと比べると何倍も大きい。席は1階の前から4列の左側。ニューイヤーコンサートと違って、ほとんどの聴衆は地元の人々のようだ。本来、ウィーンフィルの定期演奏会は会員が聴くための演奏会であるからそれも当然のことであり、たてまえでは観光客はチケットが取れない、ということになっている。会場内は期待感が高まっているというよりも、聞いたこともない若い奴が登場するらしいが、どれくらいやれるのか聴いてみようじゃないか、という一種突き放したような雰囲気が感じられる。さあ、ラハブ・シャニーが登場してきた。小柄で端正な顔つきをした好青年である。日本のホールのように照明が暗くなるわけではなく、そのままの明るい中で演奏が始まった。したがって、豪華絢爛な天井画や壁の黄金色の装飾も黄金の女神像も、そのまま視界に入ってくる。ピアノの弾き振りといっても、コンサートマスターのホーネックと眼で調子を合わせるだけで、オーケストラのほとんどをホーネックに任せているようだった。舞台上にはバッハのピアノ協奏曲BWV1052というかなりの難曲であろうと思われる曲をいとも簡単にのびやかに弾いているシャニーの姿があった。見事な早いタッチの柔らかいピアノの音色が、ウィーンフィルのこれも柔らかい音楽に包まれて美しく響いてくるのであった。目の前の舞台上からはなにか華やかで、しかも溌剌とした清々しいものが確かに発散されていると感じるのである。
 休憩に入るとほとんどすべての聴衆はホールを出るので、廊下や売店前は大混雑になる。はたして売店までたどり着けるだろうかと思ってしまう。日本なら売店の前に幾筋かの行列ができて整然と並ぶのだろうが、ここではそんなことはない。しかし不思議なことに、人と人がぶつかることもないし、我先にという人もいないのでけっして不快な混雑ではない。そこに立っているだけで自然に売店に近づいてゆき、順番が来ればちゃんと飲み物は買えることになる。
 後半はマーラーの交響曲第1番。先ほどとは違って会場は期待感に膨らんでいるような気がする。この曲自体がマーラーの他の作品と同様凄い曲なので、わたしはどんな演奏を聴いても感動する。わたしはこういう曲のときは演奏者を評価しようとはせず、ただ音楽に身を委ねるだけである。この演奏では、美しく歌われるところでは喜び、メランコリックな部分では悲しくなり、終楽章では興奮し、そして恐れおののいていた。あざやかで明晰な演奏であったと思う。シャニーの指揮ぶりは多少大げさなところもあるが、若者らしく好感が持てた。終演後は大歓声が沸き起こった。コンサートマスターのホーネックがこれ以上はないほどの力強い握手でシャニーを称えていたことが、この演奏会が大成功であったことを物語っていた。


心に残る出来事

1 “ベートーベンの小道”
 ウィーン郊外で“ウィーンの森”のふもとにハイリゲンシュタットという村に、ある時期ベートーベンが住んでいた。有名な“遺書の家”もそのひとつである。その村に、毎日散歩しながら交響曲第6番“田園”の曲想を練ったといわれる小道が残っている。“ベートーベンの小道”である。小道の左側には一筋の小川が流れており、右にはセンスの良い庭を持つ邸宅が並んでいる。小川沿いの樹木はすっかり葉を落とし、だれもいない小雨の降る小道は冬らしい物悲しさに包まれていた。小川の流れは頼りないぐらい細く、せせらぎの音は聞こえないと物の本には書いてあったが、小さな橋の上に立って耳を澄ませば微かに聞こえるようにわたしには思えた。わたしの歩く前をリスが走って横切り、多くの珍しい小鳥の鳴き声が大きく響き渡っていた。わたしはある感慨に浸りながら、一瞬の詩人になり無言で小道を歩いた。そして、ウオークマンを取り出しクライバー指揮の“田園交響曲”を耳にあてた。

2 テイーレマンとの遭遇
 ウィーンに到着しホテルに荷物を置き、さあ出かけるぞと張り切ってホテルの玄関を出ようとしたら、その横にヨレヨレの緑のジャージを着て熱心にスマホをいじっている大男が立っていた。良く見るとそれはテイーレマンであった。わたしはハッと立ちすくんだが、旅先では性格が豹変するわたしはためらわず「Excuse me」と言ってみた。すると、彼はこちらも見ずに手を振りながらなにかを口走り、走って逃げていってしまった。なるほど、これは噂どおりの人物らしい。音楽雑誌などでは“音楽はすばらしいが、どうも性格的には・・・”という記事を読んだことがあるし、ハンスは「まあ子供みたいな人だな」と評価していた。もしかしたら一種奇人のような人かもしれないという疑いをもっていたのである。2度目の遭遇はアンナ小路のイタリアンレストラン“Sole”で真千さんと一緒に夕食を食べているときだった。緑のジャージのテイーレマンが入ってきて別の部屋のテーブルに座った。どんな人にでも遠慮なしに話しかけることができる特殊才能を持つ真千さんが、すぐ彼のテーブルに行って「わざわざ日本から来た大ファンがひと目会いたがっている」と話してみたが、食事の時間は勘弁してくれ、と断られたらしい。それでも、マエストロの機嫌が良かったせいか、わたし達が帰る時にこっちを見て片手をあげてニヤッとした。3度目はホテルのロビーのソファーで、目の前に書類を広げて女性と仕事の話をしていた。話しかけられる雰囲気ではなかったが、ひと段落したところを狙って「ちょっとよろしいですか」と聞いてみた。そうしたら、”緑のジャージ男“は急に怒り出してドイツ語でなにか喚きだし、ボーイがこっちに走ってきたので、あわてて逃げて帰って来た。3度とも接触は失敗に終わった。無謀な試みであったというほかはない。4度目は出発の日の朝食。比較的早い時間だったのでホテルの広い食堂はわたしと”緑のジャージ男“の2人だけであった。ときどき遠くから目が合うだけで、まあそれだけのことだった。

3 ウィーンフィルを指揮する
 “音楽の家”というビルの4階でウィーンフィルを指揮した。スクリーンにウィーンフィルが構えていて、指揮台に上がって棒を振ると、それに合わせてオーケストラが演奏するのである。指揮台の横にセンサーがあり棒の動きを感知して演奏のスピードが変化する。したがって、調節できるのは音楽の速さだけ。しかし、それでもけっこう難しくて面白いのである。曲はラデツキー行進曲やアンネンポルカなど小曲6曲から選ぶことができる。細君はその楽しさに狂喜し立て続けに4曲もやってしまった。しかも意外に上手だ。おい、おい、早くワシにもやらせてくれよ。指揮専攻のわたしはどうかといえば、クライバー仕込みの曲線的で複雑な棒の動きにオーケストラが追いついて来れず、演奏が途中で止まってしまった。すると全員が怒った顔をしてこっちを睨みつけ、コンサートマスターのキュッヘルが「だめじゃないか、ちゃんとやってくれよ」らしいことを怖い顔で言うのである。ごめんなさい。

4 クリスマスマーケット
 ウィーンではあちこちでクリスマスマーケットが開かれていた。わたし達はその中でも有名な、市庁舎前、美術館前、カールス教会、シェーンブルン宮殿の4か所のクリスマスマーケットを訪ねた。クリスマス飾りだけではなくて、工芸品や雑貨やおもちゃなどいろいろな屋台がある。ホットワインを買ってマグカップを持ちながら屋台の店を順番にひやかしていくのはちょっと面白いものだ。ホットワインは味もマグカップの種類もマーケットごとに違っており、マグカップを返却すると2.5ユーロ戻ってくるシステムだ。とくに市庁舎前マーケットでは、大きい樽からひしゃくで注いでくれるミックスベリーの赤ホットワインが良かった。少し酸っぱくて、甘くて、中に入っているいろんなベリーをスプーンで食べながら飲めば美味しいことおびただしく、忘れられない味の1つになった。わが家には細君が持ち帰ったマグカップが4つ並んでいる。

5 グース料理
 ハイリゲンシュタットの“ベートーベンの小道”を歩いた帰り、昼食はホイリゲ(ワインを作って飲ませる農家のようなレストランのこと)に行く予定だった。車を運転していた真千さんが急に「そうだ、それよりもグースを食べに行きましょう」と言う。ガチョウである。ちょうどこの時期、ウィーン郊外ではグース料理を食べながら新酒のワインを飲むのが習わしなのだという。わたしは答えた「行こう、行こう、すぐ行こう、早く」と。グースなんて今まで食べたこともないし想像もつかない。Zum Martin Seppというレストランは、わたし達と同じようにグースを求めてやってきた地元の人々でいっぱいだった。出てきたグースはいかにも旨そうなグリル料理で、チキンでも鴨でも七面鳥でもないその味は、あえて例えるならチキンと鴨の中間だった。大皿からグースを取り分け、むさぼるようにかじりついた。もちろん新酒の白ワインは抜群であった。グースを食べ過ぎて、その日の夕食は“緑のたぬき”のみとなった。

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