糖尿病、生活習慣病の専門医院 松本市・多田内科医院

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くろべえ物語

第6話 どろぼう来たる
 眼を閉じながら、不穏なものの気配に聴き入っていた。とうちゃん、かあちゃん、ねえちゃんの家族全員がとっくに帰ってきてもいい時間なのに、夕闇は次第に濃くなり、家のなかは暗くなってしまった。僕はとうちゃんの部屋のフカフカ椅子の上でうたたねをしていたのだ。家族以外の人間はけっして歩かないはずの、竜のひげの草原の方にかすかな人の足音がする。僕は身じろぎをしておもむろに動き出す。それにつれて耳に聞こえてくるのは自分の胸の動悸とまぎわらしいほどのひそかな物音であった。僕の心は不安と恐れでざわついた。でも、僕だってこの家の家族の一員だ。留守番の責務はしっかりと果たさねばならぬ。その気概まことに軒昂といってよい。廊下を隔てた西側の和室に猫足でそっと入り込み、全神経を傾けて、何事かと、いかなる微細な変化をも見逃さないように様子をうかがった。障子戸の外側は分厚い硝子サッシになっているはずだ。すると、ピシッと硝子が割れる音がして、金具のようなものでカチャカチャと何かを探るような音がしたと思ったら、硝子サッシの錠がカタンとはずれたような音がした。硝子サッシ戸がカラカラと開いたようだが、内側の障子が閉まっているのでよくわからない。僕は手足がわなわなと震えだし、安静時は一分間に120拍ぐらいの脈拍が200以上に跳ね上がっていた。ついに、内側の障子戸がススッと開いた。現れたのは黒っぽい装束の男で、何の躊躇もなく土足で家の中に入ってきた。男はその場でじっと息を殺し、1分間ぐらいたたずんだ後、懐中電灯を点けた。部屋の隅っこで震えていた僕の顔は突然光の中にあった。男は一瞬息を呑んだようだが、「おい、黒猫。ひさしぶりだな。」と低い声でささやいた。この男、別に僕の友人でも知人でもなんでもない。僕は必死に逃げながら、1年前の悪夢のような大事件を思い起こしていた。
 1年前の夏にも、我が家に泥棒が入った。同じ男だった。僕は犯行の一部終始を目撃したのである。あの時も、家族がなかなか帰ってこないおぼろ月夜の日だった。僕が2階の広縁でふて寝をしているとき、1階のベランダ方向から微かに不審な物音が聞こえてきたので、階下へ降りて様子を見てみた。すると、居間に面したベランダに人影があるではないか。その男はガラス窓に足を掛け、天井に接した天窓に上体を軽々と登らせ、頭から室内に入ってきて、テレビに一足かけ、音もなく居間に降り立ったのである。そうです、そのとおり。天窓が開いていたのだ。しかし、これがいとも簡単な侵入のように聞こえるかもしれないが、全く予期することができない天地驚天の仕業なのであった。なぜなら、その天窓は外のベランダから2メートルをはるかに超す高さにあるばかりか、窓そのものの隙間はわずか30センチ程しかない。こんなところから人間が無法に侵入してくるとは到底だれもが予想できないことなので、天窓の戸締りをしなかった責任を誰にも問うことはできない。
 僕が抱いているどろぼうのイメージは、大きな風呂敷包みを背負い、口の周りにひげをはやし、ギョロッとした目つきの小太りおっさん。しかし、この男の容姿容貌はまるで違う。歳は40前後の痩せ型で、黒っぽい薄手の長袖シャツとジーパン。薄い手袋をして、スキー帽からはみ出すほどの長髪で、切れ長の眼に引き締まった口元などは、精悍といってもよい顔立ちである。身のこなしは軽業師のようである。そのどろぼうに飛びかかって、爪を立てた右フックを顔面に叩き込む、ほどの勇気は僕にはない。せめて、「ヤイ、ここはオレサマの家だぞ。乱暴狼藉は許さぬ。神妙にいたせ!」とどなることができる能力があればよかったのに。男はじっと目を凝らし、居間の隅から隅へと視線をずらしていたが、ついに、僕と目線が合ってしまった。その瞬間、男はびくっと身体を震わせたが、さすがに盗人だけあってあつかましいものだ。「おい、クロネコ。騒がなければ命だけは助けてやるぞ」と低い声で僕を睨みつけた。盗人猛々しいとはこのことだ。僕はその声を聞き終わらないうちに逃げ出し、2階のねえちゃんの部屋の机の下に潜んでいた。ここなら安全に違いない。何事が起きるのかと、じっと耳を澄ませていたが、階下の様子は全くわからない。そして、どれだけ時間がたったのであろうか。10分ぐらいかもしれないし、1時間ぐらいだったかもしれない。とにかくここにじっとしていようと思った。ところが、ノシ、ノシと階段を登ってくる音がするではないか。なんとずうずうしいやつだ。階段を上りきったところで立ち止まったが、僕が潜んでいるねえちゃんの部屋からは足音が遠ざかっていった。ほっとして耳をそばだてると、向こうの部屋から箪笥をあけたり閉めたりする音が聞こえてきた。足音が再び戻ってきて、階段の上がり口のところで止まった。そのまま階段を下りていくのかと思ったら、足音がこっちに向かってきた。そしてついに、ねえちゃんの部屋に入り込んできた。僕は恐怖のため身体が硬直し、心拍数は300に跳ね上がり、尻尾が10センチぐらい太くなった。どろぼうが僕が隠れている机のところに近づいて来たとき、僕は逆上してダダッと猛ダッシュしたと思ったら、どろぼうの脛に強烈な頭突きを喰らわせていた。さながらそれは、メキシコの英雄ミルマスカラスのフライングヘッドバットのようであった。僕は驚いたが、相手はもっと驚き、「げえ!」と叫んだ。
  どろぼうが去った後、僕は留守番の大役を果たせなかった慙愧の念に駆られながら、泥棒が入った後というものはどんな具合になっているものなのか興味津々という思いで様子を見に行った。果たしてそれは、期待を裏切るものだった。家の中は何の変化もみられなかった。物の移動、なにものかが起こった気配、そういったものを嗅ぎ分ける能力に長けている僕でさえも、変わった様子はなにも発見できないのだ。もしかしたら、さっきのどろぼうはタダモノではないかもしれない。盗人に入られた家の人にしばらくの間それと気づかせないような後味の良い仕業は、江戸時代の昔から、盗人の間では達人と尊敬されていたそうだ。そうか、ヤツは盗人の達人だったのか。
 ようやく家族3人が帰ってきた。美味しいものを食べてきたようで、食いしん坊のとうちゃんは「あー、お腹一杯だなあ」などと気楽なものだ。僕は、「どろぼうが入ったよ、どろぼうが入ったよ」と必死に訴えた。ねえちゃんが「くろべえが何か変だよ」と気づいてくれた。「どろぼうが入ったのかしら」と、かあちゃんがいきなり正解の答えを出したので驚いた。この人、直観力が異常に鋭く、ときどき神がかり的な予言をすることがある。「どろぼうねえ、まさか。ふっふっふっ。」ノーテンキなとうちゃんはせせら笑っていたが、「あれっ、勝手口の鍵が開いている。あれっ、隠しておいたお金がない!」というかあちゃんの声を聞いて、顔面蒼白となった。ねえちゃんは血相を変えて、自分の部屋へ駆け上っていった。「へそくりの1万円、やられたー」というねえちゃんの声が2階から聞こえてきた。いつもは優しいねえちゃんが「ふざけるんじゃない。子供からお金を盗みやがって」と、伝法な口調で怒りを表した。ねえちゃんのこういう恐い顔を見たのは初めてだった。
 近くの交番から2人の警察官が自転車でやってきた。生来が恐がりの僕は、廊下の奥から顔だけ出して様子をうかがっていた。が、交番の警察官には鬼気迫る緊迫感というものが全然感じられない。「いやー、やられましたなあ。それで被害は?」「約2万円です。」「違うよ。私の1万円をいれて、3万円だよ」「そうすると被害総額は3万円ですね。でも、どこから入ったのかなあ。ふしぎだなあ。」10分ぐらいして、鑑識の人たちがドカドカとやってきた。まず、家の中の電気を全部消して、サーチライトで廊下や室内を照らして足跡を調べた。こういうふうにしてみると、家の中というものは意外にほこりが多く見えるもので、足跡はくっきりとわかるのである。鑑識の人が「おお、怪しい足跡を発見」と言ったので皆が色めき立ったが、なんのことはない。僕の歩いた跡である。その間、交番の人はずっと「でも、どこからはいったのかなあ」と間延びした声で呟いていた。しばらくして、家の周囲を調べていた鑑識の人が、「侵入口発見!」と叫んだ。さすがである。意外な侵入経路に、家族も警察官達も信じられないという顔をして「すげえなあー」と感心していた。交番の警察官は帰るときまで、天窓を見上げながら「すげえなあー」と何度も呟いていた。
 こういう事件のときは被害者である家族も指紋をとられるものである。家族も一応は容疑者ということなのであろう。「ご家族は3人ですか?」「もう1人います」嫌がる僕をとうちゃんがフルネルソンの羽交い絞めにして連行していった。「うーん、これは重要参考人だな。一応、採らせてもらおうか」。暴れる僕の腕はとうちゃんとねえちゃんに取り押さえられ、ああ憐れかな、僕のかわいい手の肉球はペタンと押されてしまった。


あとがき:2度目のどろぼう事件の被害はほとんどなかったらしい。ぼくも無事だった。それから1年後、犯人が捕まったという噂を聞いたが、詳細は僕にはよくわからない。なお、あれ以来、家の防犯体制は完璧となり、どんな達人でも侵入することは不可能となった。

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