糖尿病、生活習慣病の専門医院 松本市・多田内科医院

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わが青春とアントニオ猪木

「1976年のアントニオ猪木」(文藝春秋)  著者:柳澤 健

 現在、プロレスは完全にショーとみなされている。プロレスはいかに観客を喜ばせ興奮を与えられるかが重要なことで、その意味では勝敗があらかじめ決まっている一種の演劇といってよい。しかし、アントニオ猪木が全盛期であった1970年代、私はプロレスの中に、鍛え抜かれた肉体と精神力が生み出す力と技のロマンを感じていた。実際、アントニオ猪木がストロング小林や大木金太郎やタイガー・ジェット・シンなどと戦う時の烈しさは、ただごとではなかった。ショーや演劇では済まされない壮絶な攻防には、あらかじめ決められたシナリオを超えたある種の真実が存在するのではないだろうかと思ったものだ。プロレスに熱中し、たびたび試合会場へ足を運ぶ私は、周囲の人達から冷たく突き放され蔑まれていた。彼らは一様に言う。「プロレスなんか八百長さ。本気でやるわけがない。」と。ところが、2007年に発行された柳澤氏の「1976年のアントニオ猪木」により、猪木が真剣勝負をやった唯一のプロレスラーであったことが見事に証明されたのである。柳澤氏は1976年に行われた猪木の異常な4つの試合について、当時の関係者を綿密に取材し、試合が行われた背景、試合の詳細、舞台裏の密話などを克明に記している。その4つの試合とは (1)ミュンヘンオリンピックの柔道で重量級と無差別級の金メダリストであるウィリエム・ルスカ (2)現役のボクシング世界ヘビー級チャンピオンのモハメド・アリ (3)韓国の巨人レスラー パク・ソンナン (4)パキスタンの英雄で格闘家のアクラム・ペールワン である。私はそのうち国内で行われた(1)と(2)の試合を日本武道館で観戦したのである。
 ルスカ戦は、その後大きな流れとなる異種格闘技戦のはじまりとなった重要な試合だ。私は柔道家の友人と日本武道館に出かけて行った。彼は、ルスカが本気でやったら猪木に負けるわけがないと言い、自信満々だ。会場には柔道家と思われる体格の人が大勢来ており、普段のプロレス会場とは違った異様な雰囲気だった。もしかしたら猪木は負けてしまうのではないかと不安になった。ルスカの投げ技が次々と決まり、腕ひしぎの態勢に入ったとき、隣にいる友人が「折れるぞ」と言った。私の身に戦慄が走った。しかし、猪木はこれを外し、コブラツイストで反撃し、バックドロップ3連発でルスカを破った。私は狂喜した。館内はすさまじい興奮状態に陥った。しかし、実はこの試合、真剣勝負ではなくプロレスだったことがこの本で明らかとなった。つまり、台本通りの試合だったのだ。最強の柔道家であるものの、プロレスにおいては全く素人のルスカを無様に見せないようにコントロールしつつ名勝負を演じ、観客を熱狂の渦に巻き込んでいった猪木はまさに天才的なプロレスラーと言っていいだろう。
 モハメド・アリに猪木が挑戦状を送り、対決することが決まった。当時、世界ヘビー級チャンピオンのモハメド・アリは世界中で最も有名な人物の一人だった。そのアリが日本のマットで猪木と対戦するということは、一大事件だった。試合前、両者の舞台裏の駆け引きは特に興味深い。18億円ものファイトマネーに惹かれて台本のあるプロレスをするつもりで来日したアリは、猪木サイドからこの試合はリアルファイトだと通告され、驚愕する。猪木はリアルファイトでアリを倒すことによって、プロレスラーの真の強さを世界中に証明したかったのだという。一方、アリはキャンセルしても世論から非難されることはなかったにもかかわらず、結局、戦う決意をする。猪木の野望も大きいが、アリの勇気とプライドの高さにも感嘆せざるを得ない。私は大学のテニス部の合宿を抜け出し、アリの大ファンである柔道家の友人と2人で日本武道館へ行った。2階後方の1万円の席だが、貧乏学生にとってはかなり高額なものだった。
 異種格闘技戦の勝敗にはルールが重要な要素となる。この試合のルールでは、頭突き、ひじ打ち、ひざ蹴り、立った状態での足蹴りなどが禁止されており、プロレスラーにとってはかなり不利なものであったという。私は、どのような試合展開になるのか全く予想できなかった。第一これがはたして真剣勝負なのか、筋書きのあるプロレスなのか、誰にもわからなかった。試合がはじまり、予想外の奇妙な展開に私は唖然とした。猪木はスライデイングしながら、あるいは仰向けになりながらアリの左大腿を執拗に蹴り続け、アリは終始猪木の周りをぐるぐると回るだけであった。私は、はやくアリを捕まえて腕固めを決めてくれ、と祈った。面白い展開もないまま試合が終了すると、館内は「ふざけるなー」「金返せー」などの怒号で騒然となった。しかし、猪木にとってこれが勝つための最善かつ唯一の戦法だったという。もし、猪木がタックルを試みたとしても、史上最高のボクサーであるアリのパンチをかわすことは不可能で、一発のパンチでKOされたに違いない。この攻防の結果、アリの左大腿側~後部は著しく発赤・腫脹し、血栓性静脈炎で一カ月以上入院することになった。一方、猪木は3発ジャブを頭部と顔面に受け軽い脳震盪を起こしたという。猪木とアリのリアルファイトという空前絶後の戦いは、「退屈」「世紀の凡戦」などと世間から酷評され、当時その真価は誰にも理解されなかった。それから30年を経て、この本が出版されたことにより、本当はこの戦いがまさに死闘であったのだと再評価されたのである。 
 試合後、柔道家の友人と私はアリを見てみたい一心で、大胆にもアリの控室に侵入しようとしたが、残念ながら扉は固く閉まっていた。すると、突然扉が開き、目の前にアリが現れた。私達二人はアリの真後ろに付いていったが、報道陣やカメラマンが後ろからドドッとなだれ込んできて、突き飛ばされてしまった。今度は猪木の控室に行ってみた。100人ぐらいのファンの前に両目を赤く腫らせた猪木が出てきて、「アリを倒せませんでした。今日はこんな試合になってすみませんでした」と私のちょうど目の前で深々と頭を下げた。「よくやったぞー、イノキー」とみんな口々に叫んだ。1976年、私は青春時代の真っただ中にいた。
 アリ戦後に行われた他の2つの試合は、テレビでその一部を見ることができた。パク戦では猪木がリアルファイトを仕掛け、ペールワン戦では逆に猪木が仕掛けられたという。いずれの試合も、一方的な猪木の攻撃に相手が負傷し、試合はあっという間に終わってしまった。
 アントニオ猪木が真剣勝負を行ったのはこの3試合のみである。1976年以降、アントニオ猪木は再びプロレス路線に戻った。私は1981年に大学を卒業し、次第にプロレスから遠ざかり、プロレス会場に足を向けることはなくなっていった。
(なお、この本は2009年、「完本 1976年のアントニオ猪木」というタイトルで文庫化された)

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