糖尿病、生活習慣病の専門医院 松本市・多田内科医院

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私が選んだ百人一首(三)

二十二 菅原道真 (845~903)
道の辺の朽ち木の柳春くればあはれ昔と偲ばれぞする
(路傍の枯れ朽ちた柳の木―春になれば、ああ昔は美しく芽吹いていたにのと、懐かしまれることだ)
 左遷された我が身を枯れた柳の木に喩え、過去の栄華を追想する歌である。道真には我が身を嘆く歌が多いが、柳の芽吹きが好きな私としては、どうしてもこの一首を採りたくなる。次の有名な二首に較べると、すでに我が身の運命を諦めきった侘しさがより強く表出しており、哀れさを感じる。背景を知らずにこの歌をみれば、女性が我が身を省みて、「昔はきれいであんなにモテたのに、今の私はもはや、ああ・・・」と嘆いていると解釈されてもおかしくはない。
こちふかば匂いおこせよ梅の花あるじなしとて春をわするな
(東風が吹いたら、匂いを配所の私のもとまで寄越してくれ、梅の花よ。主人がいないからといって、春であることを忘れるなよ)
草葉には玉とみえつつわび人の袖の涙の秋の白露
(草の葉に置けば玉と見えながら、失意にうちひしがれた私の袖の上では涙である、秋の白露よ)
 菅原道真は当代随一の学者として名実を兼ね備えた人物である。宇多天皇の大いなる信任を得、右大臣となり政治手腕を発揮した。特に、長年の懸案であった遣唐使の廃止を断行したのは大きな業績だ。藤原一門は道真の台頭を快く思っていなかった。しかも、遣唐使に付随する中国交易の利権を牛耳っていた藤原一門は激怒した。道真のライバル藤原時平は、宇多上皇から譲位された若い醍醐天皇を抱き込んで、謀略をもって道真を太宰府に追放した。左遷の知らせを受けた宇多上皇は驚いて内裏に駆けつけたが、門の中に入ることができなかったという。道真は死後怨霊として恐れられた。というのは、時平が三十九歳で急死、道真追放に加担した公家たちが不慮の死を遂げたからである。とりわけ、朝議中の清涼殿に落雷し、大納言藤原清貫が即死、天皇も発病した。鎮魂のために太政大臣が追贈され、北野天満宮を建立。以来、天神様として崇められ、学問の神様として慕われるようになった、ということである。
 今年の三月、鷹峯の帰りに北野天満宮を訪れた。道真の屋敷の梅が大宰府まで主を慕って飛んでいったという伝承が伝わっている。その飛梅伝説の御神木が御本殿前に植えられていて、その鮮やかな紅梅の色がいまだに目の奥に焼き付いている。門前にある有名な豆腐店で食べた湯葉丼も忘れられない。
小倉百人一首 このたびはぬさもとりあえず手向山紅葉の錦神のまにまに

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